こちらのブログを拝見して「感動」について考えてみました
確かに大人になればなるほど「無邪気に感動」できるものは減っていきます
それは「同じ刺激に慣れてしまう」からでありそれが成長するということなんでしょう
子供の頃は冷凍ハンバーグで感動できても大人になると「黒毛和牛100%じっくり炭火で焼く本格ハンバーグ」を求めてしまうように・・
体験は経験として記憶に蓄積されていきそのデータがある程度溜まるとそのデータに新たな経験を照らし合わせるようになります
だから「自分内データ」にすでにあるパターンには感動しなくなってしまい「ああこの感じね・・」となってしまいます
すると次の対策として感動を「左脳で分析」をするようになっていきます
「このバニラビーンズの強い香りはきっとあの産地の・・」
「この曲はベースラインとシンセのバランスが秀逸で・・」
といった感じですね
そしてウンチクを語り始めます
例えば映画好き(男性)が話す内容は大概がこのパターンです
「このシーンって実はあの映画のオマージュになっていて、そうそう、でも注目はそのすぐ後のここ、本来ならこのままカメラが引いていくんだけど、あ、わかる?うんそうそう、この部分がものすごく革新的なんだよ!これってつまり・・・」
なんて話しだすと止まらなくなる人、周りにいませんか?
まあこれはこれで「感動」しているのですがこういった「左脳系の感動」は子供のころの「右脳系の感動」の衝撃を超えることがあまりありません
その映画に対して深く理解することはできても、それは思考が深まっていくプロセスであり「無邪気な感動」とは異質のものなんです
では「思考」は「感動」よりも下なのでしょうか?
そんなことはありませんしそもそも上下なんて存在するはずがない
むしろ「思考を深めるプロセス」こそが「無邪気な感動」のその先にあるもっと奥の深い楽しみなんです
そもそも映画は物語なので風景や絶叫マシーンのように「完全に右脳だけ」で感動することはできません
それがまだ経験が浅いころはまるで絶景を見るような感覚で映画にも無邪気に感動できていただけなんだと思います
でもそれは「未熟さがもつ特権」なのでその後成長してからも(それまで数多く観てきた)映画で同じ感動を経験するのはそう簡単ではありません
映画好きにとって映画で感動できなくなるのはかなりつらい・・
そこで(より高いレベルの感動を求めて)人は考え始めます
そして考えに考え、調べ、データを集め分析した結果、これまで体験してきた感動のメカニズムを解き明かした暁に晴れて「ウンチク大好き映画オタク」になることができるのです!
思考の先にある感動は子供の頃に受けたようなシンプルな衝撃はないかもしれません
でもそこには思考の末に得た自分だけの感動があり、それは誰もが同じように衝撃を受ける「シンプルな感動」にはない深い深い満足感があります
これぞ大人としての娯楽なんでしょう
そう考えると「最近感動できなくなってきた・・」と嘆く必要はありません
今その入り口に立っているということなのですから。
ではでは