d.hatena.ne.jpこちらのブログを読んで「まさにその通りだなー」と思ったのですが、ブログ内では軽く触れられていただけの「形見の品」について思うことをちょっと書いておこうと思います
結論から先に書くと、形見の品はモノにもよりますが「日常的に使用するモノ」なら「使い倒してから捨てる」が正解かなーって思うんです
だって使えば使うほど傷むし、修理するにも限界があるんじゃないのかな
もう何年も前になりますが、大事な人の形見の品であるカードケースを捨てたことがあるんです
たしかLouis Vuittonのモノグラムのやつだったかな
もらったときはお元気だったのですがその後に鬼籍に入られ、結果的に形見の品になってしまいました
その時点でけっこう使い倒してたんですが「形見の品」となるとそう簡単には捨てられません
淵がホツレたら縫い直して、革が擦り切れてきたら部分的にアテ革をして、大事に大事に使っていました
それでもやはりモノには寿命があり、部分的ではなく全体的にくたびれてきてしまいます
それを修理するなら一旦バラバラにして、使える部分を補強しながら、ダメな部分を新しい革で作り直して、といった大々的な修理になると言われました
費用も修理日数もそれなりにかかるとのことでしたので、そこで初めて惰性ではなくちゃんと向き合って考えてみたんです
「部分的に修理しながら何年も使用したから、もういいんじゃない?」
「いやいや、形見の品だぞ?捨てるなんでとんでもない」
相反する気持ちが交錯します
いくら考えても答えが出ないので、ちょっと視点を変えてみました
それは「自分の形見だったらどうか?」という視点です
亡くなったのが自分で、その形見を使い続けるために何万円もの修理費をかけてほしいのかどうか?
答えは瞬時に出ました「さっさと捨てて新しいのを買ってくれ」
自分の家族や友達にそんな高額な修理費を強いるぐらいなら、そのお金で旅行に行ったり美味しいものを食べたりして、その際に自分の思い出話をしてくれるほうが何倍も嬉しい
そう思ったんです
その瞬間に自分の中のヘンなこだわりが氷解しました
そして何の苦もなく自然な気持ちで捨てることができたんです
これは「散々使ったことでその使命を果たした」という気持ちと「逆の立場からの視点」で客観的になれたのが大きく作用したんだと思います
これが「全く使わずにしまっておいた」ものなら、さすがに罪悪感が勝ってしまい捨てられなかったと思います(使ってないと傷んでもいないですし)
あと「俺の形見にどんだけの価値があるのよ?」という気持ちなれたのも大きい、故人もきっとそう思うはずだと気づくことができました
ただこれは故人と自分との関係性もかなり影響しそうです
故人が自分より年上なら上記の感じで対応できるのですが、同年代~歳下だと難しいかもしれません
また、故人に対しての「後悔」や「後ろめたいさ」があるとやはり難しそうですので、そう考えると後からでもそれらを軽くできる月命日や墓参りなども、それなりの意味があるのかなーと思います
「捨てられない」のは自身の気持ちの問題である、というのは引用したブログとリンクするのですが、さらに「形見の品」に特化して書いてみました
どんなもので「モノはモノ」でそこに何かが宿っているわけではありません
納得できるまで使い倒してバッサリ捨てるのがよさそうです
ではでは