数年前に「偽善」という言葉が流行りましたね
そう、震災直後の時期です
あれだけの災害が起きれば被災していない人が「何かしてあげたい」と思うのは当たり前の感情で、ボランティアに参加された方、募金をされた方、いろいろな方がいらっしゃったと思います
有名人や企業が大きな額の募金をしたり、物資をトラックで運んだり、炊き出しなどのボランティアをされたり、連日そういった報道を目にしました
その頃に「偽善」という言葉をテレビで耳にしたりネットで多く目にしたのをよく覚えています
この「偽善」という言葉ですけど使っている人は違和感を感じないんでしょうか?
というのが今日のお話です
まず当たり前の理屈として、偽善だ何だと言っている人は何もしていない人です
自分は何もしていないのでテレビなどでボランティアをしている人を見ると罪悪感が膨れ上がってしまい、気持ちのバランスをとるためにそれを叩いて落ち着こうとするんですね
「他者を否定することで自分を優位に見せる」という心理と同じです
まあ、それは別にいいんだけど(こういう人は言ってもわからないし常に一定数存在します)もうちょっとよく考えてコトバを使ったらどうかな?
「偽善」って善のニセモノってことです
じゃあ「善」ってなんなの?って話になりますよね
どこかにいるんですか?絶対的な「善」っていう存在が。
どこかにいるんですか?何も犠牲にせず生きている人間が。
いませんよね、僕たち人間は命を食べないと生きていけません
それが自然の摂理と言えばそれまでですが、他の生き物を殺して食べている人間に「絶対的な善」なんてあるはずがない
ちなみに「善といえば神だろ!」っていう意見があるかもしれませんが、「神」は人が想像の世界で作り上げる理想のことですから存在は証明できません
逆に言うと証明できないからこそ理想のままで在り続けられるんですね
ああ、これぐらいにしておきましょう
あんまり書くとヘンな人が寄ってきそうです
話を戻しますが、絶対的な「善」の存在が証明できないのに、それの「ニセモノ!」っていう批判って、言ってて気持ち悪くならないのかなー
「偽善」ってどういうことですか?って真顔で聞いてみたいです
なんて答えるのかな?
「自身を良く見せようといいことをして、そんな自分に酔っている」
「注目されるためにボランティアをしている」
「人のためと言いながらその後の営業活動につなげようとしている」
こんなとこかな?
でもこれの何がいけないんでしょう
ボランティアをするのは自分が気持ちよくなるためです
人のために何かをすることで満足感を得るためにやってるんです
その結果として誰かの助けになるんだから、これのどこに問題があるのか、全く理解できません
「いや、ボランティアってのはもっと純粋な気持ちで・・・」なんていう輩はもうデコピンするしかありませんね、それもめっちゃ痛いやつ
なんでもそうです、が感情論になった時点でそれ以上議論する価値はありません
動機なんてなんでもいい、それで誰かが幸せになるのならそれこそが善行じゃないの?
その当時テレビで印象的なシーンを見ました。
たしか震災から1~2週間経過した頃だったと思います
俳優の杉良太郎さんが物資や食料をトラック数台で被災地に届けようとしている際にインタビューを受けていて、どこかの記者が「偽善だという声もありますが・・」みたいなことを言ったんです
その瞬間の杉良太郎さんの顔がとても印象的でした。
「目が据わる」とでも表現すればいいのでしょうか、子供の頃から見てきたどの演技よりも怖い顔をしていました
怖いと言っても睨みつけたり声を荒らげたわけではありません
「この状況でこんな低レベルなことを言う輩がいるんだな」といった感じの哀しい目をされていたんです
セリフは忘れてしまいましたが「そうだよ、偽善だよ、それがどうしたの?」という内容だったと記憶しています
この時のインタビュアーの顔をカメラで捉えて欲しかったですねー
どんな顔でそのコメントを聞いていたのかな
「オレは仕事だから言っただけだ、本当はそんなこと思ってない」なんて表情を浮かべてたのかなー
そんな言い訳をしないとできない仕事なら、さっさと辞めれば?
ボランティアをする人を哀しませて一体誰が得をするんでしょう
激痛デコピンですね、コイツも。
「困ってる人がいるから助けに行く」
こんなシンプルなことがどうして批判されるのかマッタクわかりません
安全地帯で卑屈に笑ってるのは勝手だけど、せめて足を引っ張ることはするなよ
って思いました
そして杉良太郎さん、めちゃめちゃカッコいいですね
ではでは