音楽とか、考え事とか

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日々考えたことを書いています。

AIは故人の代わりになりえるか

録画してた近未来予想の番組を見てちょっと思ったことを書きます

 

「「故人が残したメール、画像、動画なんかの膨大なデータをAI(人工知能)に覚えさせてコンピューター上にその人を再現する」

 

っていう試みがすごく興味深かったです

 

もちろんそれだけだといくらデータが多くてもその人に近づけるには限界があるので、ある程度データを入力したら今度は近しい人、例えば家族とか友達とコミュニケーションを重ねることでAIが自分自身で学習して、どんどんその人の思考とか価値観に近づいていくんです

 

これを続けていくと限りなくその故人に近づいていき、そのAIのことを「その人の分身」ということにしてずっと一緒に暮らしていけるかもね

 

っていう感じでした

 

でもこれ、いろいろ問題も思い浮かんだんです

 

例えば、その近しい人が亡くなったらAIをどうするのでしょう

 

そのままにするのか?消去するのか?

 

AI自身の人格を認めるのなら簡単には消去できませんが、誰がメンテナンスをしていくのか?という問題が残ります、そのコストの負担なども

 

あくまでもコンピューターソフトだとするなら無感情に消去できるのかもしれませんが、ついさっきまで1人の人間の心を満たしていたAIをそんなに割り切れるもんでしょうか

 

とかね

 

ほかにもいろいろ思うところはあるんだけど、今日は意識のベクトルについて考えてみます

 

その番組を見ていて強く思ったのは

 

あくまでもAIをその故人に近づけることが最大の目的で、どこまでいっても100%にはならないだろうなー、ってことなんです

 

家族ほど近い存在でも「こんな一面もあったんだ!?」って思うことがありますよね

本人がそうした(そう言った)のならただ単に新たな発見をするだけですが、それがAIだったら「この人はこんなこと言わない」「所詮、作り物なのね」ってなりませんか?

 

その故人は生まれたときからその人自身なわけだから「自分らしいかどうか?」なんてあまり考えませんよね

でもAIはそうはいかない、あくまでも代替品なので「よりその人らしさ」が求められると思うんです

そんな中で生前にはしなかった行動、言わなかった言動があったとき、親しい人間はどう捉えるのでしょうか

 

つまり人間の場合「自分」という精神的な塊があるとしたら意識はそこから外側に向かってるんです

意識のベクトルが「中から外」なんですね

 

AIをその人に限りなく近づけようっていう試みはどう考えても「外から」でしょ?

外から内向き、そこが最大の違いかなって思いました

 

周りからの質問にどう答えればその人らしいかを瞬時に判断して、答えたときの周りの反応をフィードバックしてデータを蓄積して精度を高めていく

 

その学習が進めば限りなく「その人らしく」なりますが、ふとした際に「やっぱなんか違う」ってなりかねないと思うんです

 

評価するのが人間だからでしょう

 

不安定な人間が評価を下している限りは完璧には届かない気がします

んじゃ、それもAIが評価すればいいのかな?

 

でもAIがAIを評価しだすと人間の入り込む余地がなくなって「なんのためにやってるのか?」がわからなくなってしまいそうです

 

そもそもが人間が満足するためのプロジェクトですからねー

 

よく映画とか漫画なんかで「AIが進化して人間を敵とみなすようになり人間対機械の戦争が勃発!」みたいなのがありますが、僕はそうはならないんじゃないかと思っています

 

悪いことも起こるかもしれませんが受ける恩恵のほうがきっと多いはず

 

その頃にはベクトルがどうとか、そんな問題もとっくに過ぎているんでしょう

AIはAIとして確立された存在で生活に溶け込んでそうです

 

そんな未来が待ち遠しいですね

 

ではでは