音楽とか、考え事とか

日々考えたことを書いています。

誰かを笑い者にするのは最も安易な「笑い」だ

先日、薬局の待合室でついていたテレビをボーッと見ていました

 

平日の午前中からテレビを見ることなんてまずないので全く知らなかったのですが、今ってその時間帯に夜のバラエティ番組の再放送をやってるんですねー

 

他にも平日午前って昔のサスペンスや時代劇も再放送しているみたいだし、テレビ業界ってこの時間帯の視聴者を完全にナメてますね

 

まあ見ないからいいんだけど。

 

さてその番組なのですが「安易な笑いに走ってるなー」という印象をもちました

世界のアチコチに芸人さんが行って現地のイベントに参加するという趣旨の番組なのですが「芸人を笑い者にする」以外の笑いが1ミリもなく、なんの面白みもないんです

 

これって平日午前用に作ってるわけじゃないですよね?

ゴールデンタイムにやってる番組なんですよね??

 

いまのお茶の間ってこんな感じなのか・・

 

 

誰かに無茶をさせて失敗したりヒドイ目にあっている様を笑いものにするのって、作り手も演者もなんの思考もいりません

 

必要なのはリサーチと準備、それとカメラアングルスキルです

 

どの国のどのイベントに芸人をほり込めばオモシロイ画がとれるか?

どういった画が撮れそうで、それをどう撮影するか?

作り手は事前にしっかりリサーチしてから一団を送り込み、あとはハプニングに合わせて現場対応していくんでしょう

 

かなりの部分が「偶然性に頼った」番組作りですね

 

芸人さんのほうは「どのタイミングでどんなリアクションをとればウケるか?」

それさえ把握して準備していれば大丈夫です

大げさにリアクションをとりながら、大げさになり過ぎないようにすればいい

 

どちらも必要なのは経験と機転ってことになります

 

でも「笑い」って本来もっとクリエイティブなものだと思うんです

それまでになかったものを創るのが「クリエイトする」ということのはず

 

でもそれだと視聴者に受け入れられないんでしょうねー

だから、わかりやすくカンタンな笑いになっちゃうんだと思います

 

要望に合わせてるだけじゃクリエイティブにはなれないってことか。

 

まあ、その時見た番組のごく一部の数分間が、たまたまそういった趣旨なだけなのかもしれませんが・・

 

そんなことを考えながらふと周りを見ると、画面を見ている人たちはみんな表情の変化が乏しく「ここ、笑うトコですよ」というシーンが来たらその準備をしていたかのように、それぞれが同じような顔で、同じぐらいのレベルで笑ってました

 

ある程度予想できる結果をまって、それが訪れると予定通り笑う・・

 

そりゃ毎日こんなのだけ見てたらボケるはずだ

そうやって変化を嫌う思考停止マンが出来上がっていくんでしょう

 

「何に時間を使うのか?」って大事だな〜、と感じました

 

それと、最も視聴率が高いと言われる時間帯に「誰かを笑い者にする」番組を放送していると、それがアタリマエの感覚として多くの人に共有させることになります

 

この「感覚の共有」が怖い。

 

「弱い者いじめ」をしてウサバラシをしたい気持ちの「種」は誰の中にもありますが、通常はその種が芽吹かないように理性で抑えています

でもストレスが溜まると理性の力が弱くなり種が芽吹く人が出てきて、その際に背中を押すのが「共有の感覚」なんですよねー

 

「みんなやってるし、いいか」これが最悪感を薄めてくれるんです

そして薄まった罪悪感は背徳感につながり、甘美な味でストレスを覆い隠してくれます

 

もちろん番組の作り手は視聴率を稼ぐために必死に仕事をしてますし、芸人さんはプロなので笑われる役割を演じているに過ぎません

 

だから漫才やコントでプロ同士がお互いを笑い者にしたりバカにし合ったりしても「プロ同士が演じるエンタメ」として楽しむことができます

 

でもここに素人が混じると途端に身近になり、見ている側の感覚を麻痺させて実生活にも影響を与えてしまうんですね

 

つまり「感覚の共有」がイジメの種を助長していると言えそうです

 

誰の心にも「種」は存在していますから、それが芽吹かないように気をつけたいもんですね

 

ではでは